通訳キャリア33年の 今とこれから 〜英語の強み〜
2025.11.04
通訳
第23回:ISS通訳学校時代の思い出とその後
皆さまこんにちは。今年は10月の下旬からだんだんと寒くなってきましたね。
現場での案件があったのですが、朝は寒くて雨が降っていたけれど、現場は暖房で暑いという環境だったので、何を着て行っていいのかわからず困りました。この時期は、はっきりと寒いわけでもなく気候も安定しないので、洋服のチョイスに戸惑うことが多いです。環境のためと電気を節約するため、自宅での暖房は11月からと決めているのですが、さすがに今年は寒くなるのが早いので10月中なのですが暖房を入れました。まだあとひと月以上続く繁忙期、体調を崩すわけにはいかないですから。
今月は私が30年以上前に送っていた、「通訳学校生時代のこと」を振り返って書いてみようと思います。
今はもう昔、とでも言いましょうか、その頃の時代背景を説明します。
YouTubeやポッドキャストなんてものはありません。スマホなど携帯はなく、まだそれらは移動電話と言われていた時代。通訳案件の依頼は基本固定電話で来るのです。留守電にエージェントが用件を残し、外から留守電を聞けるように設定してメッセージを聞いて、今は懐かしい公衆電話で回答します。
通訳学校の教材も、録音されたテープ(濃い茶色でした)で、それをカセットプレーヤーから再生して聞いて訳します。ヘッドセットも現在ほど一般的ではありませんでした。その場で聴いて訳すというある意味今の学習環境よりもっと現場に近い環境だったのかもしれません。
私がスクールに通いだしたのは、海外の案件に初めて通訳として行ったことがきっかけです。留学から帰国し、何気なく英字新聞を見ていると、エージェントISSの通訳募集が載っており、応募。運よく、オーディションに合格しました。そこで通訳という仕事の楽しさや意義を感じ、また私の性格やライフスタイルに合致しているので、キャリアは通訳にしようと方向性を決めました。独立するためには、正式に学校へ行って学んで、同時通訳のスキルをつけることが必須であると思ったので、早速学校へ問い合わせ、秋学期の途中から入校しました。入ったクラスは、一番上のクラスの一つ下のクラスでした。クラスの皆さん、ある程度出来上がった人が多くて、自分はまだまだだなと身が引き締まる思いでした。
最初は当時、夫の転勤で住んでいた関東の北の県から通っていたこもあり、授業が終わるとすぐ帰宅したのですが、一期終わって、無事に一番上の同時通訳クラスになってからは、クラスメイトと話すようになりました。
そのクラスには、今もランチをする仲であるTさんや、時々現場で一緒になるSさんなどがいました。
ある日、一人(男性)のクラスメイトが「いろいろと悩みがありますよね、皆で落ち込んでいるなら励まし合うような会を持ちましょう」と提案してくれ、その次の授業の後から、週に一度(当時は週に平日二回授業があった)授業の後、近くのカフェで軽食をとりながら、先生が怖いとか訳せないとか、自分はヒアリングができないとかなど、まぁ、ぼやいていました。
私は片道2時間以上かかっていたので、カフェ集会の後、家に帰宅すると11時近くになっていましたが、とても楽しく、そして今でも懐かしい思い出です。クラスの中でも親しい4~5人の会でしたが、くじけそうになっても、先生が厳しくてもなんとかやってこれたのは、このクラスメイトのおかげでした。
その中の一人とは、20年以上たって久しぶりに会いましたが、彼女も同じように懐かしく、また黒歴史の中の光の時代だったよね、と2人で笑い合いました。
その中でもTさんとは、学校を出た後の方が関係が近くなり、彼女が英国へ家族で行っていたときも含めてずっとつながっており、もう30年以上のお付き合いです。Tさんはロシア語もできるので、バレエ大好きな私に付き合って、22年末にロシアのサンクトペテルブルクへ行こうと計画を立てていました。私はマリインスキーバレエ団のソリスト、永久メイさんのくるみ割り人形公演を観て、Tさんはエルタミージュ美術館に行くという計画でしたが、ロシアのウクライナ侵攻で計画は立ち消えになりました。日本人初のプリンシパルダンサーになるのではと言われている天才バレリーナなのでぜひとも観たかったです。
またある時、専門知識をつけようということで、三省堂書店へ高校の教科書を買いに数人で行ったこともあります。これはSさんの提案で、英語もだけど、専門知識と用語をおさえなくては、いくらヒアリングができても内容が理解できないでしょ、という理論です。これは私も目から鱗でした。この勉強法は、その後の私のテクノロジー分野通訳としての勉強の仕方の基本となりました。高校の教科書には、半導体や創薬や電気電子の基礎が載っており、用語もたくさん出ています。文系の通訳が基礎的な理系知識と法則を学ぶ第一歩は、高校の参考書や教科書がベストなのではないでしょうか。その次に、大学の教科書やファインマン物理学の本などがいいでしょう。
通訳業界にいると、当時のクラスメイト(TさんやSさんなど)がその分野のスターとなっているということを(喜ばしく)耳にすることがあります。
そういった方は数名いますが、この数名は通訳学校時代から私達(私だけかもしれませんが)とは違っていました。
例えば先生が「〇〇はこういう意味でこういった経緯があります」と授業でおっしゃいます。私はノートをとって、素直に「そうなんだ」で終わり。でもそのクラスメイトは次の週の授業で「先生のおっしゃったことを調べたのですが、その後それは名称がかわっており、今は〇〇で。。。。」と発表をします。「あ、これだな、違いは」と思いました。そしてそういうクラスメイトに尊敬の念を抱きました。これこそが私に欠けていたものだと。それは今の私の姿勢に大きな影響を与えています。
与えられた資料を鵜呑みにせず、自分で調べる、そしてその周辺の知識も入れてしまうという今の仕事の姿勢はこのクラスメイト達が私に与えてくれた資質なのです。
このクラスメイトが通訳業界でも有名になっている、これは納得だなとうれしくもあり、私の見立てが正しかったのだと自分でほくそ笑んでいます。
このように、私が通訳者として一人前になるまでには、たくさんの友との出会いがありました。
また、友と一緒に「先生怖い」とか「同時通訳なんて絶対できない、無理」とか思って悩んでいた時期もあります。
キャリアの中で知り合った通訳者の友人は大切です。現場で出会った年下の通訳者達、ベテランの方、同年代の同僚、皆から学ぶことがあります。色々な人とのふれあいの中で、自分を確認していく。自分の通訳スタイルやワークスタイルを確認していく。そして、出会った通訳さんとは、たとえ一日だけの出会いであったとしても学べるところは学ばせてもらうという姿勢で仕事をしています。
今では偉そうに教える仕事をしていますが、元は皆さんと一緒。
あきらめずにくじけずに、時には友に慰められながらやってきました。
今もそうです。
今いるところで出会った人たちを大切にしていくことが、長く仕事をしていく中での財産なのだと、これを書きながら改めて思っています。

大学卒業後、米ニューヨーク州立大学、オレゴン州立大学大学院でジャーナリズム学び、帰国後、ISSインスティテュートに入学。現在はフリーランスの会議通訳・翻訳者として、IT、自動車、航空機、人工知能などのテクノロジー分野と特許など法律のエキスパートとして活躍中。
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