鈴木泰雄のプロの視点『会社辞めて地方に移住して翻訳始めて兼業主夫とイクメンやってみた』
2026.01.05
翻訳
第13回:翻訳と家庭の二刀流――ライフステージによるバランスの変化
翻訳者 鈴木泰雄
これまで取り上げてきた「能力・適性」「家族」「お金」「場所」に続き、今回は「年齢」がテーマです。
人は、ただ一人で年齢を重ねるわけではありません。自分とともに家族のライフステージも進み、暮らしに関わるさまざまな要素が大きく変動します。その結果として翻訳業が二の次になった時期が、私にはありました。
こう書いても、ライフステージによって生活がどう変化し、どんな風に翻訳業に影響するかが、特に若い方々にはイメージしにくいでしょう。そこで、私の経験を例に図解してみます。
◆ライフステージによる暮らしの変化と翻訳業への影響:私の場合
「能力・適性」「家族」「お金」の3要素は、直接的には翻訳力(①)、家事・子育て負担(②)、必要資金(③)という形で翻訳業に影響します。この①②③の最大値をそれぞれ100として、その推移をグラフ化したのが下の図です。あくまで主観的・感覚的なものですが、私から見た3要素の変化を端的に示しています。なお、横軸は「翻訳キャリア(年)」です。

○第1期:翻訳と家庭の理想的な両立期
20年間の会社勤めで培った英語力と専門性を基に①の翻訳力を集中的に伸ばし、受注先を広げて多種多様な翻訳業務を経験できたのが、この時期です。
②の家事・子育て負担と翻訳修行/翻訳業をうまく両立できたのは、第一に、子どもを保育園に預けることで週5~6日、まとまった時間を確保できたから。第二に、第7回で紹介したように、その時間を最大限に計画的に使ったからです。その結果、家事・子育てのかたわらコンテストや通信添削で腕を磨き、トライアルと営業活動(第3~4回の「上京カード」「飛び石作戦」)を経て仕事を広げられました。もし、次に挙げる第2期に翻訳業を始めていたら、翻訳力と顧客からの信用という土台を築けずに挫折していたかもしれません。
なお、この時期は育児費用がかかるものの必要資金(③)としては大きくなかったので、修行中でもアルバイトに時間を取られずに翻訳に集中できました。
○第2期:子育て優先のストレス最大期
第1期の理想的な状況は、子どもの小学校入学で一変します。多くの子育て世帯と同じように、わが家も「小1の壁」に直面したのです。小学校の低学年は、児童クラブを利用しても帰宅が保育園時代より早くなります。また、春・夏・冬の長い休暇には、食事などの手間が一気に増えます。しかも、旺盛な好奇心にまかせて冒険する年ごろは、乳幼児とは別の意味で目が離せません。
加えて、子どもの入学と同時に、妻が片道2時間の遠隔地に転勤になりました。Iターン夫婦の私たちに実家に頼る選択肢はなく、平日は私一人で「壁」に挑まざるをえなかったので、②の家事・子育て負担が一気に跳ね上がりました。
一方、翻訳力(①)は最大値のまま。第1期に開拓した翻訳会社や出版社からは依頼が続きます。打つ気満々なのに、「待て」のサインでバットを振れない野球選手のようなもの。打診された案件の分量・納期と子どもの予定・体調を見比べながら、受注を抑えることで対応するしかありませんでした。しかも、担当者から敬遠されそうで家事・子育てを断る理由にはできず、ストレスが溜まる6年間でした。
このように翻訳者としては曇り模様でしたが、半面、とても深く子育てに関わり、また、妻のキャリアにも大きな収穫がありました。どちらも現在の家族関係に大きなプラスとなったので、無駄な苦労ではなかったのでしょう。
○第3期:穏やかな両立期
子どもが中高生になると家事・子育て負担(②)が減り、その一方で翻訳力(①)は高水準のままなので、仕事と家庭の両立がかなり楽になりました。最後の2年間は妻の再度の遠距離通勤と子どもの受験期が重なったものの、コロナ禍で国際会議がなくなって受注が減り、不本意な形でしたが第2期のように仕事と家庭の板ばさみになることは避けられました。
○第4期:手じまい期
子どもが大学に入って家を出ると、家事・子育て負担(②)は激減。一方、学費と仕送りで必要資金(③)が急増しました。第10回で触れた学資保険を準備していなければ、子どもを県外に進学させられなかったかもしれません。
想定外だったのは、加齢に伴い持続力・集中力が衰えて無理がきかなくなり、翻訳力(①)が下降線をたどり始めたことでした。ただ、家事・子育ての負担が減って自分の時間が増えたので、それなりにバランスは保たれました。なお、人によっては、子育てに続いて親の介護に直面する場合もあるでしょう。
◆翻訳者の独立適齢期は?
さて、以上のような経験を踏まえて、翻訳者に転身するタイミングについて考えてみます。
40代で脱サラして翻訳業に踏み出した私ですが、定年を待って挑戦する選択肢もありました。しかし、前述のように翻訳力を伸ばし、翻訳会社との信頼関係を築く期間が必要なことや、加齢に伴う衰えなどを考えると、定年後のスタートでは遅かったと思います。
一方、英語に目覚めたのが遅かった私には当てはまりませんが、新卒の時点で翻訳業を目ざす選択肢もあるでしょう。事実、かつて知り合いの大学教員から、卒業を控えた教え子が当時話題の「半農半X」(農業と農業以外の仕事Xを組み合わせた暮らし方)に興味を抱き、Xとして翻訳業を考えているのだがと意見を求められたことがあります。
それに対して私は、翻訳業は片手間でこなせる仕事ではないと説明した上で、実務翻訳者を目ざすならば一度は会社勤めを経験すべきと回答しました。分野にもよりますが、私が曲がりなりにも翻訳者になれたのは実務経験があったからです。
◆実務経験の大切さ
あるとき、私が納品した訳稿に、新人チェッカーさんが大幅な修正を入れて差し戻してきました。しかし、修正箇所を見ると、企業年金に当たる”pension plan”や“annual retirement benefit”と、退職時に一括支給される退職金を混同して訳してありました。私は元の訳文に戻した上で説明を添えて返送し、何とか納期に間に合わせました。
また、トライアルの採点を手伝った際には、見積依頼の商談メールの中の”We appreciate your quotes.”という文章を「相場を評価する」と解釈した方がいました。
いずれも、一定の社会人経験を通じて一般的な人事制度や商取引の流れを理解していれば、海外ビジネスの経験がなくても誤りを避けられたように思います。
このほか、会社勤めでは情報技術の進歩に伴う市場や組織の変化を目の当たりにしますし、実用的なICTスキルも学びます。翻訳に役立つだけでなく、独立後に翻訳業務を効率化する上でも貴重な経験です。さらに、会社勤めを通じてビジネスマナーが身に付くので、翻訳会社とのやり取りも円滑に進みます。
◆インサイダーとして得る知識と経験
また、特定の業界や分野に特有の業界用語や専門用語がたくさんあります。ネットで検索できる用語が増えたとはいえ、現場を知らずに使うのは誤用のリスクと背中合わせです。逆に、ある業界や会社で働いた経験は翻訳の精度と速度を向上させ、ひいては自分を差別化する強みになります。
ただし、自戒を込めて付け加えると、常に文書の目的と読者にふさわしい訳語や言い回しを選ばなければいけません。
翻訳修行中のことですが、通信添削の課題として、ある企業のエピソードを紹介した文章が出題されました。その中の”… aim advertising directly toward children …”という英文を、私は「子どもに直接訴求する広告を実施」と訳して提出しました。しかし、返ってきたのは「マーケティングの本なら問題ないが・・・」というダメ出しでした。
サラリーマン時代に「訴求」や「実施」という用語を日常的に使っていたので、安易にそう訳してしまいましたが、課題文の出典は一般向けの読み物でした。だから、「子ども向けの広告を打つ」などとしないと、読者には読みにくいのです。その時の講評欄には「もっと大和言葉(和語)を使おう」と書かれていました。
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次回は最終回。「人生をやり直せたら、どうする?」と題して締めくくります。

京都大学文学部卒業。MBA(ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院)。大手飲料メーカーにて海外展開事業等のキャリアを積んだ後、翻訳者として独立。家事・育児と両立しながら、企業・官公庁・国際機関向けの実務翻訳のほか、「ハーバード・ビジネス・レビュー」「ナショナルジオグラフィック(WEB版)」をはじめとしたビジネスやノンフィクション分野の雑誌・書籍の翻訳を幅広く手掛けてきた。鳥取県在住。
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