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和田泰治のプロの視点『読書三到~或る通訳者の本棚』

2026.08.03

通訳

第10回 『落語で英会話』(桂枝雀)祥伝社

第10回 『落語で英会話』(桂枝雀)祥伝社

アイ・エス・エス・インスティテュート 英語通訳者養成コース講師 和田泰治

通訳を生業として今年で31年目

通訳を生業として今年で31年目を迎えた。

特段語学堪能というわけでもなく、海外生活や留学の経験もゼロ、勉強は大嫌いで学業成績は小、中、高校を通して(もちろん大学でも)常に低空飛行という身の上ながらよくも通訳のような仕事を何十年も続けてこられたものだと我ながら感心している。これもひとえに同胞の通訳者の皆さんやクライアント、通訳エージェント関係者や家族など数えきれない方々にご支援戴いた賜物と感謝の念に堪えない。

何となくもっと英語の勉強をしなければと一念発起し会社勤めの傍らアイ・エス・エスに通学し始めた当初は、そもそも通訳などというものは世の語学オタク諸氏が志す職業で自分とは縁のないものと思っていた。 そんな固定観念を払拭し、通訳自体に対する考え方を180度変える経験をしたのがアイ・エス・エスで同時通訳科に進級した直後の授業だった。アイ・エス・エスには当時基礎Ⅱ科と呼ばれていたクラスから入学して同時通訳科を卒業するまで約3年間お世話になったが、前述の通り、当初は通訳を生業とする(できる)という発想はほとんどなかった。

「愛宕山」との出会いが通訳観を変えた

通訳についての考えが大きく変わったきっかけは同時通訳科に進級して課された教材の落語だった。オリジナルの日本語落語の音声が課題で配布され、翌週までに英語で通訳を完成させる。一週間後の授業で演習を行い、その最後に桂枝雀師匠演ずる同じ演目の英語落語と自分の通訳を聴き比べてさらに学習を深めるという段取りだった。 課題が落語だとわかった時はかなり驚いたが、落語は好きだったし、取り組み始めてみると自分なりに目指したい通訳のスタイルが徐々に明確になるのを初めて実感することができるようになった。

落語を英語にするという難題

演目は「愛宕山」。そもそも落語を英語に通訳するということは、想定される外国人の聴き手に笑ってもらわなければならない。軽妙なやり取りは単純な和文英訳ではおもしろくも何ともないし、日本独特の場面設定や登場人物も外国人に理解してもらおうと思うと一筋縄ではゆかない。とりあえず野駆けは”picnic”あたりにしておけば良さそうだが、旦那と太鼓持ちに芸妓やお茶屋の女将・・・この人たちのことをどう説明するの?「かわらけ投げ」もそのままでは実感がわかないだろう。

「語り」をどう通訳するか

そして何といっても「語り」だ。話芸の粋とも言える落語を通訳しようというのだから、無理を承知でド素人が話術に挑まなければならない。ペース、トーン、ピッチに意味を持たせ、人物に応じて話し方も変える。教室ではそこまでできないが、自宅では目線や身振りも考えながら本当に落語を演ずるつもりで練習した。

そうこうするうちに表層的な言葉の要素を超えて、聴き手に自分自身の言葉、話術でコンテンツを伝えるためにどうすればよいかという発想に近づいていった。頭の中にあるのはオリジナルの落語の言葉そのものではなく、愛宕山への珍道中や、太鼓持ちが繰り広げる大立ち回りが眼前に広がる視覚的イメージである。これをもとに英語で情景、会話を再現する。ここまでくると知らず知らずのうちに表層的な言葉の呪縛から解放される感覚が少しずつ体感できるようになり、これが自分の目指す通訳の方向性にとって大きな転機となった。

『落語で英会話』という一冊

さて、随分と前置きが長くなってしまったがここからは本題の書籍の紹介をしよう。

『落語で英会話』は桂枝雀師匠による英語落語の解説書である。英会話の学習を始めたきっかけから始まり、英語の講師やネイティブスピーカーを交えて日本語の落語を英語落語に創作してゆく過程も説明されている。英語落語の先駆者である著者が異言語である日本語と英語の狭間で如何に腐心していたかがよくわかる。件の『愛宕山』を始めとして『ロボットしずかちゃん』や『ホワイトライオン』など英語落語の代表的なネタについても英語のスクリプトだけでなく場面毎の要点や英訳の留意点などが説明されている。

なぜ教材は「愛宕山」だったのか

また授業の話に戻るが、遠山先生はそもそも数ある英語落語の中で何故『愛宕山』という演目を教材に選んだのだろうか。永眠された今となっては確かめようもないが、日英両言語で桂枝雀師匠の落語を聴き比べられる演目は『愛宕山』だけではない。先に挙げた『ロボットしずかちゃん』や『ホワイトライオン』のほうが通訳養成スクールの受講生の訓練教材という観点からはまだ取り組み易いのではないだろうか。時代設定が現代で登場人物も少ない。一方『愛宕山』では、旦那が幇間と芸妓、舞妓などを引き連れて愛宕山を登って「かわらけ投げ」に興じたかと思うと、今度は皿の替わりに次々と小判を投げ始める、欲に目が眩んでそそのかされた太鼓持ちが何と広げた傘をパラシュート替わりに谷底へ小判を取りに落下してゆく。クライマックスでは縄を竹にくくりつけ、その反動で谷底から山の上まで一気に舞い戻ってくるというのだから何とも現実離れした展開である。言葉での語りとあわせて視覚的な要素も大きいのでアクションも重要な要素だ。話全体のテンションが高くテンポも速い。素人が考えても演者に求められる肉体的、精神的な負担は相当なものだと推察できる。実際に八代目桂文楽は晩年に狭心症のため医師からこのネタを演じる事を禁じられていたという。

「愛宕山」が与えてくれた天啓

通訳養成スクールの教室での訓練に過ぎないとはいえ、このようなネタを同時通訳しようというのだから大変な難行だったことは間違いない。何十年も経っているにもかかわらずこうして授業のことを覚えていることからもそのインパクトが窺い知れる。だがそのお陰でコミュニケーションの精髄の一端に触れ、その後の通訳の方向性を決定づける貴重な財産となったのは前述の通りで、自分にとってはまさに天啓を得た経験だったと言っても過言ではない。

遠山先生には心より感謝申し上げたい。

通訳者にとっての究極の教材

因みに『愛宕山』はもともと上方落語だが、桂枝雀版だけでなく江戸落語版も必聴だ。例えば古今亭志ん朝演じる『愛宕山』もその独特の江戸言葉のキレと華やかさで観る者、聴く者を圧倒する。至高の話芸に触れることで、単なる言葉を超えた”delivery”の神髄とは何たるかを理屈抜きに体感することができる。通訳者にとっての究極の教材だと思う。

今回はここまで。ごきげんよう。

参考文献: 

桂枝雀(2003)『落語で英会話』祥伝社

和田泰治


英日通訳者、アイ・エス・エス・インスティテュート 東京校英語通訳コース講師。明治大学文学部卒業後、旅行会社、 マーケティングリサーチ会社、広告会社での勤務を経て1995年よりプロ通訳者として稼働開始。 スポーツメーカー、通信システムインテグレーター、保険会社などで社内通訳者として勤務後、現在はフリーランスの通訳者として活躍中。

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