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インタビュー第七弾

アイ・エス・エスは、おかげさまで創業50周年を迎えました

アイ・エス・エスまたは日本における通訳・翻訳の黎明期に活躍された方々から、アイ・エス・エス創業50周年を記念して、当時の思い出やこの業界の現在、未来についてお話を伺い、シリーズ連載を展開しています。

第七弾は、アイ・エス・エス・インスティテュートの中国語コース創設に関わっていただいた楊 承淑氏(台湾輔仁大学大学院翻訳通訳研究所所長)にお話を伺いました。

楊 承淑氏

台湾輔仁大学大学院翻訳通訳研究所所長。輔仁大学(東方語文学系学士)、東北大学(文学研究科修士)、北京外国語大学(言語学博士)で学び、通訳理論、通訳実務論、通訳教育学、応用言語学を専門とし、輔仁大学で1981年以来、教鞭をとっている。中国語、英語、日本語での論文等多数。台湾での中日・日中通訳翻訳実践の第一人者でもある。

【Interviewer】筆谷 信昭氏(創業者子息、元代表取締役社長)

楊先生は、ISSでの中国語コースの創設にも関わっていらっしゃいますが、ISSとの最初の関わりやそのきっかけについてお伺いしたのですが。

楊氏

私は、母校でもある台湾の輔仁大学 (東方語文学系/日本語学科卒)で教職に就いているのですが、1987年頃になるでしょうか、ある日、学部長に呼ばれ「通訳・翻訳を養成する専門的な修士課程を創設するから、海外へ行って翻訳・通訳訓練について学んできてほしい」と言われて、日本にある養成学校のなかからISSへコンタクトをとったのがきっかけです。当時対応していただいたのが宇田さんという方で、当時は中国語(中日)コースがなかったにも関わらず、英日のノウハウを生かして設計していただき、半年間、集中的に全心全意のサポートをしてくださったのをよく覚えています。

その後、台湾に戻ってから「台湾初」の通訳者養成コースを始めました。英語・独語・仏語等の欧米言語も開始予定でしたが、留学先からの帰国が私より遅かったこともあり、学部長からの「いち早くスタートしなさい」という指示を受け、英中よりも日中コースの方が先にスタートしました。当時の学科長は元々米国の翻訳・通訳の名門校 Monterey Institute of International Studies の学科創立者でいらしたArjona Tseng先生という方で、中国語はおできにならなかったのですが、通翻訳大学院設立のために大学が特別にスカウトしました。ダイナミックに色々投資をされつつも、台湾のメディア等からのファンドレイジングも実現され、この大学院のハード・ソフトの基盤を作られたとても能力の高い方でした。

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楊先生は、ISSで初めて通訳訓練を経験されたのですね。

楊氏

はい。日本語の勉強はしていましたが、同時通訳となると非常に難しいと聞いていたので、半年間(全250時間/通訳200時間、翻訳50時間)という短い期間で本当に習得できるか不安でした。カリキュラムは、逐次通訳・技術翻訳(自分が文系出身でもあるので、苦手な科学技術分野を克服するために)・同時通訳という内容で組んでいただきましたが、本当に苦労しました。正直にいうと、半年間で同時通訳のスキルを身につけるのは無理で、最後、成績表をいただきましたが、「自信を持って、この人なら同時通訳ができるとは言い難い」という評価で、学部長への報告もできませんでした。同時通訳を学んだのは最後の一か月半でしたから、この短期間で充分には習得できないのは当たり前ですが、「通訳・翻訳という仕事は生涯学習していかなければならない」ということに気づかされたのも良い経験でした。

また、ISS側では社内会議を繰り返しながら、当時の英語コースをモデルケースに「どうすれば、双方に納得がいくべストの中国語コースができるか」を考えてサポートしていただきました。そこには、「中国語コース」の中日クラス第一号を絶対に成功させたいという思いも伝わってきました。また、ISSでは日英・英日の同時通訳のコースも受講させていただきました。先生も受講生も熱心で授業もとても素晴らしい内容で、日中のコース設立に向けてとても参考になりました。私自身も、通訳・翻訳での「日本と台湾の架け橋」的なミッションを意識していたようなところもあって、元来の文学研究のために収集していた書籍を図書館に寄贈して完全に通訳・翻訳へ舵をきった時でした。

当初、ISSでの訓練を受ける人員枠は私1名を予定していたのですが、ISSの方から「もう1名増やして2名枠で来てほしい。学費総額は変えません」という要請をいただきました。ISSは太っ腹(笑)とも思いましたが、1人よりも2人の方が通訳訓練では都合がよいということで、できれば日本語ネイティブの方がベストということでした。そこで、学部長が日本人を探して、その方と来日しペアで訓練を受けました。その方は台湾でカトリック関係の仕事をされていた方で、通訳に特別な興味があるというわけではなかったにもかかわらず私の通訳訓練のために日本まで来て学ぶことになったわけですから、今思うと少々強引だったかもしれません(笑)。日本で通訳訓練を受けていた1987年、日本はバブル期でした。日本の物価水準は高くマンスリーマンションもない時代で、宿泊先を探すのに苦労しました。友達が都合をつけてくれたある会社の社宅として使われていた目黒のマンションで、台湾人の奥様に日本語の家庭教師をすることで家賃も安くしていただき、過ごしていました。

先ほどお話ししたようにISSでの成績は、決して好ましいものではありませんでした。「もう少し時間をくれれば、もっと良い評価を得ることができるはず、何とかモノにするぞ」と心のなかで強く誓いました。輔仁大学は財政難のなかでサポートしてくださったわけで、私の研究で恩返ししなければと常々考えています。その考えのもと、通訳翻訳を研究し続けていることが、当時の評価表の代わりになればと思っています。研究の成果と言っては何ですが、現在、輔仁大学は、世界でも有数の通訳翻訳に関する蔵書が最も多い大学になりました。

そして、台湾に戻り中日コースをスタートしました。1988年から入学試験は開始しましたが、学科長含め中国語ができない講師もいたことで、英語と日本語、中国語の3ヶ国語を入試の必須科目としたため、志願者の数は非常に多かったのですが、入学資格をクリアできる志願者はほとんどいませんでした。結局、中日コースをスタートできたのは1991年でした。

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通訳コースの開設・運営とあわせて、通訳者としての実務経験も積まれたと聞いております。

楊氏

はい。私自身が通訳として稼働したのは1988年からです。学校運営と並行しながら会議通訳をメインに活動していました。最初の仕事は本当に必死でしたね。1日の会議のために、専門的な技術用語の辞書を6冊購入して準備しました。交通費など含め経費から考えると割に合わなかったかもしれませんが、初めての同時通訳でしたので、仕事には気合いが入りました。最初に担当したのは、建設業に関する会議で、クライアントの全社的品質管理(TQC)など技術的な内容が多く、非常に実践的な現場でした。当時は同時通訳の存在自体が知られておらず、ブースの中から滞りなく発声するだけで、オーディエンスから「すごいな~」という評価を得られる雰囲気でしたので助けられました。

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それから30年弱、通訳者として、そして、通訳翻訳の教育者として、通訳翻訳を学ぶ学生や台湾でのビジネスを見られてきていかがですか?

楊氏

まず、通訳市場をみると、英語は会議通訳が多いのですが、日本語の場合は製造業を中心にワントゥワンでの通訳が多い状況です。台湾の大学では、理工学部などでは中国語よりも英語を教科書として使っているので、英語力のある卒業生が多いのですが、実際の就職先、例えば製造業の現場では機械等すべての取扱書が日本語、そして日本の技術者が派遣されてくるプロジェクトが多いのです。そこで日中通訳が必要となり、かなりの人がワントゥワンの通訳付きで稼働していました。また、対日感情問題のある中国への進出を図る秘策として、日本企業が台湾で開発を行い台湾企業として中国へ進出するというビジネスケースもあるようで、その場合での日中通訳翻訳の需要も持続的にあります。

輔仁大学では、2年間の通訳訓練修了後の1年間はフォローアップをし、その間にプロに成長させて後は自分で自立できるようにしていくという体制をとっていたこともあり、学校がエージェント機能を補完したこともあります。日本と違い、台湾はエージェント制が整備されているわけではありません。通訳翻訳でのエージェント的なビジネスに学校が携わることは、修了生が現場と現実を知るという意味でもとても有益なことが多いです。機材レンタル、会場の検証、クライアントへ良いサービスを提供できるようなアレンジ、限られた予算のなかで交渉していくこと等を学び、学生にチャンスを与えて、その後は学生がクライアントから直接お仕事を請けられるように現場感覚で養成していくことができます。またクライアント側の立場や考えを知ることも大事で、当時台湾にはなかった「半日料金」という日本の仕組みを台湾に取り入れたり、といった点でもISSでの経験を生かすことができました。

国際医療翻訳通訳のマスターコースを昨年創設したのですが、プログラムはOJTを中心としています。特に、医療通訳の場合は人生経験がない人は向いていないと考えています。2017年から大学病院を創設予定というのもありますが、大学病院なしではこのコースは成り立たないと思います。教育をビジネスとして捉える意味でも「教育課程」=「商品」と考え、この「商品」を常に革新していくことが重要なこととも考えています。特に、医療通訳は、通訳者達の社会的ステイタスを担保する意味でも重要な役割を持っています。会議通訳者などのスタープレイヤーは全体の1割程度で、花形職業にも見えますが、残りの9割の通訳者たちの受け皿を考える必要があります。会議通訳のようにパフォーマンスを上手く仕上げるという訳ではなく、医療通訳は地味に見えますが、確実に正しく訳さなければならない、内容の信頼できるような通訳者を輩出していくことが大事だと考えており、そのために、台湾で医療通訳協会という、学会ではなく実務よりの団体も設立する予定です。

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学術的な面とビジネスの現場や実務との融合という意味で、大学での通訳翻訳コース創設は大きな契機となったのではないでしょうか?

楊氏

そうですね。ISSのビジネス、つまり通訳翻訳者を養成する部分とその市場へサービスを送り込む部分を持つシステムが非常に勉強になりました。当時、大学の研究・教育者が実務にまで関わって現場へ出ていくというのは異例だったと思います。台湾での通訳翻訳コース創設後、他の研究者から「ただの職業訓練の場所」と言われたこともありました。自分では目標イメージがあったとしても、それまでの道のりではいろんな事を言う人もいましたが、結果として、研究も教育も実務も全部兼ねて進めてきたことが評価されました。

また、ISSでの経験は、自分のビジョンに投資する時間でもあったと思います。例えば、その時点ではISSの直接的利益にならないような英日クラスの見学やエージェント実務の経験をさせていただいたことは、将来的には自分への実益として返ってきているということが、今となって非常に感謝しているところです。ISSでの研修や自分の大学での経験を通じて言えるのは、国レベルでも大学レベルでも、やはり教育への投資というのは、長期で必ずリターンが得られるものであるということです。ISSが今も通訳者の訓練を、日英だけでなく日中も継続しているのはとても素晴らしいことだと思います。

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―それも楊先生との出会いというきっかけがあればこそと思います。貴重なお話をどうもありがとうございました。