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ISSについて about

インタビュー第六弾

アイ・エス・エスは、おかげさまで創業50周年を迎えました

アイ・エス・エスまたは日本における通訳・翻訳の黎明期に活躍された方々から、アイ・エス・エス創業50周年を記念して、当時の思い出やこの業界の現在、未来についてお話を伺い、シリーズ連載を展開しています。

第六弾は、アイ・エス・エス創業から黎明期の1965年以降、日本の国際化を官民それぞれの立場から実践された方々であり、また当時のアイ・エス・エス創業者である筆谷 尚弘氏を友人として支えていただいた、池田 彰孝(てるたか)氏(SMK株式会社元代表取締役社長)、棚橋 祐治氏(元通商産業省事務次官)にそれぞれお話を伺いました。

池田 彰孝氏

1937年生まれ。1959年、早稲田大学政治経済学部を卒業後岩井産業株式会社(現双日)に入社、1960年昭和無線 (現SMK株式会社)に入社、1973年より2002年まで同社の代表取締役社長。2009年に代表取締役会長を退任し常勤監査役・監査役会議長に就任、現在に至る。

棚橋 祐治氏

1934年岐阜県生まれ。東京大学卒業後、1958年に通商産業省に入省。1991年5月から1993年6月まで通産省事務次官。2001年より石油資源開発株式会社の代表取締役社長、2008年より代表取締役会長(現任)。弁護士。

【Interviewer】筆谷 信昭氏(創業者子息、元代表取締役社長)

まずはじめに、ISSとの出会いについて伺えますでしょうか。

池田氏

ISSとの出会いというよりは、創業者である筆谷尚弘さんとの出会いといった方がよろしいと思います。筆谷さんと出会って、その方がやっておられたのがISSという会社であったということでしょうか。筆谷さんと出会ったのは、1968年、東京青年会議所(以下東京JC)に入会したときですね。この頃の筆谷さんは既にJCの中核メンバーとして活躍されていて、自分も随分お世話になりました。その当時のJCには、鹿島建設の故・石川六郎さん、西武百貨店の故・堤清二さん、大日本印刷の北島義俊さん、ウシオ電機の牛尾治朗さんらそうそうたる方々がいらっしゃいましたが、その方々が1965年のISSの創業時の出資者として名を連ねていました。

このことは、ISSが当時の通訳・翻訳・国際会議のベンチャー企業として、いかにさまざまな業界からどれだけ熱い期待を受けていたかを示しています。実際に自分がJCに入会する少し前に開催されたJCの世界大会もISSが請け負っていました。(注:1966年11月に京都で開催されたJCI世界会議。この年の5月に完成したばかりの日本で最初の国立の会議施設、京都国際会館(京都宝ヶ池)において、今上天皇皇后両陛下(当時皇太子同妃両殿下)の行幸を仰ぎ盛大に挙行された。)また、東京五輪と並び、日本の高度成長と国際化の象徴となったイベントである1970年の大阪万博でも、ISSが国際会議や通訳翻訳を受注していて、筆谷さんもとてもお忙しくされていたことを覚えています。

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そういった素晴らしい経済人の方々に、創業時のISSは支えられていたのですね。

池田氏

まあ、筆谷さんはJCの中であまり迫力のある営業をされる方ではなかったし、良くご存じのとおり、むしろ夜の飲み会で存在感を発揮される方だったから(笑)、直接的な仕事というよりも、そういう通訳翻訳や国際会議のような新しい産業のあり方を、より高所からいろんな方々から学んでいたように思います。

例えば、先ほどお話したとおりISSの株主でもあった牛尾治朗さん(ウシオ電機創業者)が音頭を取り、確か1970-71年くらいに、主にJCメンバーと当時の主要官庁の若手官僚とで官民勉強会をやっていました。元共同通信の取材記者に世話人をお願いし、当時通産省の事務次官でいらした故・大慈弥嘉久氏のご協力のもと、当時の課長補佐トップクラスの優秀な若手も参加していました。そこに棚橋祐治氏も来てくれて、筆谷さんと棚橋さんの交流も始まりました。

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その頃のISSについて、何か具体的なエピソードなどを聞いていらっしゃいますか?

池田氏

いや、筆谷さんはほとんど仕事の話はしなかった(笑)。ただ、JCの仕事は本当に熱心にやってもらっていて、自分が担当した青年経営者のためのセミナーの準備でも、国際会議運営のプロとして貴重な助言をいただきました。

このセミナーは幅広いジャンルから著名人を招き、若い会員に講演してもらったり討論したりするもので、1972年の会のときは当時若手政治家の故・小渕恵三元首相、河野洋平氏、山口敏夫氏らに「政治を語ろう」と題して白熱した討論をしていただきました。その際、筆谷さんのご縁で同時通訳者として売り出し中の鳥飼玖美子さんにも「ニッポン国際人」というテーマで講演いただきました。

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その翌年の1973年にSMKの社長に就任され、多国籍化の推進を提唱されたのですね。

池田氏

そのとおりです。多国籍化とは、海外に製造・販売の拠点を持ち世界市場に本格進出することであり、当時から欧米以上にアジア展開を強く意識しました。台湾は日本語でのコミュニケーションが取れる場面も多かったですが、マレーシア、フィリピンなどではやはり英語が必須。北米に赴任する社員だけでなく、アジアに行く社員にも猛烈に英語研修をさせました。

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そこでISSが語学研修を担当したのですね。

池田氏

はい、これに関してはこちらから筆谷さんに、とにかくやって欲しい!と強くお願いしました。1980年頃から会社の国際化も急激に進みましたが、もともと当社の社員は理系が多く、英語にあまり興味がなかった。ISSの英語研修プログラムを始業前の朝と終業後の夕方に実施し、相当数の社員が受講したことで、社内の英語レベルも随分上がりました。我々は日本のメーカーの中でも1、2を争う早い時期に「英語の公用語化」を掲げましたが、あまり抵抗がなく進められたのはISSのおかげも大きかったです。外国人の新卒も積極的に採用してグローバル化を進め、今では日本国内のビジネスは20%以下、一方で中国語圏が20%を超えてきました。

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最後に、ISSと父(創業者:筆谷 尚弘)とのご縁を振り返りつつ、これからの世代に、グローバル化、国際化にどのように対応すべきか、メッセージをいただけますでしょうか。

池田氏

そうですね、グローバル人材というのは外国語だけできればいいというものではありません。日本には能などに代表される素晴らしい文化があり、それにまつわる歴史と伝統の素晴らしさを自分の言葉で外国の人たちに伝えられるようになることがとても大事だと考えています。筆谷尚弘さんと一緒に、故・観世栄夫氏に師事し、謡曲と仕舞を習っていたのも懐かしい思い出です。

また、筆谷さんの人脈には大変なものがあり、それがISS、ひいては通訳翻訳という仕事を、政財界さまざまな人たちに認識してもらったという効果も大きかったと思います。この業界に現在、将来と関わっている方々には、そういった先人の歴史や功績にも目を向けて欲しいと思います。

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―貴重なお話をありがとうございました。

ISS、そして父(創業者:筆谷 尚弘)との出会いはどのようなきっかけでしたでしょうか?

棚橋氏

JCの会合で、池田さんを通じて知り合いました。真面目な勉強会がメインでしたが、終了後よく三人で飲んだりもしましたね。筆谷さんは穏やかな方ですが、闊達な池田さんと実に仲が良く、私も池田さんのお陰で筆谷さんと親しくさせていただき、有難く思っております。

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その頃に、ISSが棚橋さんに英語のプライベートレッスンをさせていただいたと聞いております。

棚橋氏

はい、実は若い頃は英語が苦手で、高校は岐阜の田舎の学校だったから、二期校として受験した東京外国語大学の英語の試験で突然「dictationを行います」と言われ、その単語の意味がわからず、その問題は0点ということもありました(笑)。

通産省の仕事をする中、やはり英語力を磨くことが必要だと感じ、筆谷さんの強い勧めを受けてISSに通いました。とはいえ当時は課長補佐の時代で、毎日とても忙しかったので土日の個人レッスンでした。英語ネイティブの人ではなく、日本人の通訳の先生に教わっていましたが、その頃の研修のおかげで英語力はずいぶん上昇したように思います。

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通産省では長く日米貿易摩擦交渉をご担当されていたと伺っております。

棚橋氏

はい、ドイツのデュッセルドルフに赴任していたのですが、福田内閣の成立(1976年)により、突然帰ってくることとなり、総理大臣秘書官に就任しました。その際、カラーテレビの輸出規制が大きな問題となり、それ以後は日米貿易摩擦の間題が起きるたびに自分が担当する、というつらい役目でした。自分の前の時代には繊維分野での貿易摩擦がありました。1977年当時はカラーテレビ等でシャープやソニーが米国を脅かしていた状況でした。米国は自分が世界一であればおおらかなのですが、追いついてくるととたんにシビアな対応をしてくる。そののち、1980年代には、自動車、半導体が主となり、アメリカが大幅な対日貿易赤字を計上した状況で、特に半導体の交渉がもっとも厳しかったです。USTRのヤイター氏、モトローラのガルビン氏らとの厳しい交渉があり、日本市場における米国産の半導体のシェアを20%程度に抑えることについて、米国側は、それを日本政府にguarantee(保証)して欲しい、日本側は、いや、我々はencourage(支援)するに留める、というところで、深夜まで議論になりました。

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そのような交渉の時、どのようなことに一番気を使われたのでしょうか。また、交渉における通訳の存在はどのようなものでしたか。

棚橋氏

私が一番気を配ったのは、まずは相手の話をじっくりと聞くことでした。相手を理解せずして交渉がうまくいくことはあり得ない。原則として、日米交渉においては、日本は日本側の通訳を、米国は米国側の通訳をそれぞれ使います。英語が極めて堪能だった宮沢喜一さんでも、公式な場面では通訳を使っておられました。お互いを正しく理解するために、通訳者が果たした役割というのは極めて大きなものだったと思います。

私は事務次官を退官したあと、筆谷さんのお勧めもあり、ISSの通訳コースに半年だけ通わせていただきました。通訳の訓練を実際に体験することで、通訳という仕事や技術の難しさも感じました。

通訳翻訳という仕事は、これからも機械が完全に取って代わるということはなく、必ず人間がやるべき部分が残り、むしろ国際化が進む中で需要も増えると思います。自分が次官になった頃に、筆谷さんの尽力もあり日本翻訳連盟が通産省の認可を受けた公益法人となりました。私自身は本件には直接はあまり関わらず、確か当時サービス産業課課長補佐だった西村康稔氏(現衆議院議員)が担当でしたが、業界団体を確立しその業界全体を発展させていこうという意識を当時持っていたのは素晴らしいことだったと思います。

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最後に、これからの時代の若い世代の人たちへのメッセージをいただけますでしょうか。

棚橋氏

私は現在金沢工業大学の東京キャンパスで教授を務めていますが、今の若い人には勉強熱心な人も非常に多く、普段は社会人として日中働いているのに、静岡から新幹線で通ってきてくれる学生もいます。今の日本の若者は元気がないという年寄りも多いですが、決してそんなことはない。そういった元気のある若い人たちが、日本国内に留まらず、やはりもっと世界に、特に隣国であるアジアに出ていってビジネスをして欲しいと思っております。そのためには英語を学ぶことは必須であり、それ以外に中国語やベトナム語、タイ語、インドネシア語などのASEANの言語も習得する必要もあるでしょう。

また、言語の習得以外にも、幅広い意味でのやり方でコミュニケーションを深めることも大事です。米国の政治家や経済人は皆さん芸達者で、レーガン米元大統領は、やはり日米貿易交渉において、バイクの米国輸出への関税を大幅に引き上げる際、ハーレーにまたがった若い頃の自分の俳優時代の写真を送ってきて、「自分の夢を壊さないでくれ」と中曽根元総理に陳情したというエピソードもあります。筆谷さんはとても愉快な人で、このようなユニークなコミュニケーション能力についても理解がとても高い方でした。

2020年の東京オリンピックに向けて、日本が世界に自らを発信する必要性はますます高まってくるでしょう。これからの時代の皆さんには、是非とも英語をはじめとする外国語の習得を頑張りながら、言語だけでないコミュニケーション能力も高めて欲しいと思います。

筆谷さんには本当にお世話になりました。ご冥福をお祈りしております。

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―貴重なお話をありがとうございました。