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ISSについて about

インタビュー第八弾

ISSグループは、おかげさまで創業50周年を迎えました

ISSまたは日本における通訳・翻訳の黎明期に活躍された方々から、ISSグループ創業50周年を記念して、当時の思い出やこの業界の現在、未来についてお話を伺い、シリーズ連載を展開しています。

第八弾は、ISSの教育事業、そしてロサンゼルス現地法人立上げからの代表であった土田 三郎氏(元教育事業部長、元ISS Translators, Inc.代表取締役社長)にお話を伺いました。

土田 三郎氏

山形県出身、東京農業大学卒業後、旭化成株式会社入社。デンマーク、イギリス留学を経て株式会社アイ・エス・エスに入社、教育事業部長を務め1989年よりISS米国現地法人設立のためロサンゼルスに渡米、ISS Translators, Inc.社長、会長を歴任。

【Interviewer】筆谷 信昭氏(創業者子息、元代表取締役社長)

まずはじめに、ISSとの出会いについて伺えますでしょうか。

土田氏

ISSとの出会いは、1970年代初頭、ロンドンに留学している時でした。当時のISSは新宿の京王プラザホテルのビジネスセンターにおいて英国留学のエージェント事業を開始し、ロンドンの受入れ側で動くスタッフを必要としていました。主に大学生、社会人の女性を合計100人以上受入れ、ロンドンの英語学校に紹介し、またau pair(育児お手伝い)や身障者施設のボランティアなどのインターンシッププログラムの提供などもやっておりました。当時海外に留学するのは経済的にかなり大変な時代でしたので、参加したのはかなり裕福な層の人たちでした。それぞれ貴重な経験をして、帰国後は通訳になる方など、色々な形でISSに協力してくれた方が多かったように思います。その後、自分自身がロンドンから帰国することになり、筆谷尚弘社長からもお誘いをいただいて、東京のISSに勤務することになりました。

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当時のISSはどのような雰囲気でしたでしょうか。

土田氏

確かその頃にISSの東京の本社が麹町に移転してきた頃だったかと思います。当時はオイルショックの影響等で事業をいったん縮小していたこともあり、少人数で色々な仕事を兼務しながら回しておりました。そんな中で1978年くらいからエンジニアリング企業によるプラント輸出が活発化し、中近東諸国やアフリカ、アジアの現場での長期プロジェクトの人材派遣が急伸しました。この追い風を受けてISSは急速に元気になっていき、人材派遣事業が語学スぺシャリストの派遣へとつながり、ISSグループが安定軌道に乗り始めるきっかけになりました。

私自身は1980年頃からスクール事業担当となりまして、通訳コースの体系化に取り組みました。それ以前は通訳を学習する素地のあるレベル以上の英語力をもった人だけを受け入れる学校だったのですが、その下のレベル、通訳準備のコースを作り、英語力の強化や一般教養の習得に力を入れました。当時は原不二子先生、佐野壬知子先生ら大変実績のある同時通訳者の方々に先生を務めていただいており、基礎的な英語力増強と合わせて広く教養を身につけることが通訳者になるために大事なステップであるという方針で、中国の古典などの教養も教えていたことを覚えています。通訳コースについても、この時代に3レベルの体系を作り、それまで合計100名くらいの生徒数が200名以上まで増加しました。当時の時代背景が、官民ともに大きく国際化に向けて動いていたのも強い追い風となっていました。

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その頃に、日本初の宇宙飛行士の英語研修も請け負ったと聞いています。どのようなきっかけでそのようなお仕事を受注したのでしょうか。

土田氏

通訳コースの拡充と合わせて法人向け語学研修事業もスタートし、三菱商事やSMKといった優良企業がお客様になってくれていました。その頃の通訳コースの受講生に宇宙開発事業団(当時NASDA 現JAXA)の職員の方がいらして、スクールの運営体制や、通訳訓練をベースにした英語研修の優れた面を感じていただき、勤務先であるNASDAに推薦してくれたのが直接のきっかけでした。もちろん、それでいきなり発注とはなりませんが(笑)、第一次段階で18社、最後には数社が残り、最終プレゼンの結果、ISSが宇宙飛行士選考における英語力の判定と選考後の英語研修を担当させていただくことになりました。

1985年、毛利衛さん、内藤(現・向井)千秋さん、土井隆雄さんの3名が日本人初の宇宙飛行士として選抜されたときは、新聞、週刊誌のトップ記事を飾るものすごいニュースでした。今の若い人には想像できないかもしれませんが、相当厳しい応募要件にも関わらず確か500人以上の応募者があり、一次書類審査、二次面接審査で30人程度に絞り込まれた際には、誰が残っているのか、新聞や週刊誌が必死に探ろうとしていて、国民的な大騒ぎとなっていました。選考後の英語研修は大体週3日、午前中をメインに実施していました。午後は体力トレーニングを含む実務訓練が行われていてとてもハードなスケジュールだったはずですが、3人とも英語の研修もとても熱心かつ優秀で、シャドウイング、リプロダクションのような通訳訓練手法も取り入れてのかなり濃密な研修をこなしていたように思います。とても不幸なことに、1986年のスペースシャトル・チャレンジャー号の事故で日本国内での研修期間が延びてしまい、合計3年くらいだったでしょうか。英語の部分は徐々に少なめになっていきましたが、ISSにとってもとても大きなチャレンジとなり、またとない貴重な経験と実績でした。

選考から7年後の1992年9月12日に、毛利衛宇宙飛行士が日本人として初めてスペースシャトル、エンデバー号で宇宙に旅立ちましたが、その際にはISSがプレス関係等の日英通訳を受託し、東京とロサンゼルスのISSが連携して、この日本にとって記念すべきイベントの通訳を務めさせていただいたのもとても思い出深いです。

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宇宙開発事業団のプロジェクトの時期に、ホンダの北米進出プロジェクトにも関わられていたと伺っております。

土田氏

はい、1980年代は日米自動車貿易摩擦があり、またプラザ合意以降の急激な円高もあり、ホンダは北米市場で本格的な自動車の生産に乗り出しました。自動車の生産拠点を米国につくるにあたっては、大量の日英の通訳・翻訳のニーズが発生します。筆谷尚弘社長の長年のご友人、東京グラフィックスの故・尾形社長が、義父である本田宗一郎氏をご紹介くださったことがきっかけになりました。

私の担当は、オハイオ州のホンダ工場に通訳者を派遣することで、ISSの通訳者のネットワークを活用して常時約30名規模の通訳派遣をいたしました。スクールが成長したことにより通訳者の供給力が上がっていたことや、前述のロンドン時代のネットワーク等も合わせ、フル回転で人を送りましたが、やはり米国のビザがないと長期の滞在は不可能だったため、現地在住でグリーンカード(永住権)等を持った通訳者を探す必要があり、また米国現地での管理体制に移行するために、1989年に米国に現地法人(ISS USA, Inc.のちのISS Translators, Inc.)を設立しました。ホンダで通訳をしていた人のうち、米国でトップクラスの通訳者となり今も活躍している人も多数おります。

ホンダ関連の通訳翻訳事業についてはホンダの子会社である本田開発興業の米国現地法人に引き継ぎましたが、ISSは2010年まで約20年間ロサンゼルスに拠点を持ち、通訳翻訳の営業と現地での通訳訓練学校を続けておりました。

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ISSロサンゼルスでの一番の思い出はどのようなことになりますでしょうか。

土田氏

そうですね、ホンダや宇宙飛行といった華々しい仕事ももちろん忘れられませんが、やはり米国にある企業として地域に、そして日系企業として母国に貢献しようという気持ちで色々地道にやったことが思い出深いです。ISSアメリカの原点でもあったホンダの創業者、本田宗一郎さんは常々、企業はその存在する地域社会に貢献しなければならない、との強い信念を持って経営をされていました。当時のISS筆谷尚弘社長もその精神を引き継ぎ、米国でのISSが、カリフォルニアでの地域貢献、日米関係への貢献といった短期的な利益以外でも存在感を示すようにと応援してくれました。

日米間の人材交流ということでは、1998年にISSロサンゼルス校として、職業訓練ビザをサポートして日本からの留学生を迎えることができるようになったことが大きな出来事でした。2001年の同時多発テロ以降アメリカの移民政策がとても厳しくなり、以後新規でそのような学校になることは実質不可能になりました。それがあったおかげで累計100人以上の留学生を受け入れ、米国に残り通訳など日米間の仕事で頑張っている人を多数サポートできたこともとてもいい経験でした。

また、あさひ学園というロサンゼルスにおける日本人学校の運営を仕事とは別にお手伝いさせていただき、理事長を2年勤めさせていただきました。それ以外にも、在外日本人が日本国内の選挙に投票する制度、いわゆる「在外投票」を認めさせるための原告団としての活動もさせていただき、2005年には最高裁大法廷での違憲判決という歴史的な出来事につながりました。このようなことができたのも、ISSの歴史の中に、常に社会貢献への思いがあればこそで、今振り返っても、とても感謝しています。米国では「Philanthropy」(フィランソロピー、利他的活動・奉仕的活動)という言葉がとても大事とされており、米国社会で生きていくためにこの言葉を私は業務の中で常に意識してきました。思えばISSの50年の活動も、日本社会および日本と世界との関係において、この言葉を体現してきたのではないかと思います。

ISSを引退して5年以上となりますが、ISS時代の精神を忘れず、残る人生で引き続き日米間で貢献できることをやっていきたいと思っております。ISSには、これからの50年も社会に貢献することを大事にする企業であり続けて欲しいと願っております。そしていつの日かまた北米拠点も復活して欲しいですね。

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―貴重なお話をありがとうございました。