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ISSについて about

インタビュー第二弾

アイ・エス・エスは、おかげさまで創業50周年を迎えました

アイ・エス・エスまたは日本における通訳・翻訳の黎明期に活躍された方々から、アイ・エス・エス創業50周年を記念して、当時の思い出やこの業界の現在、未来についてお話を伺い、シリーズ連載を展開しています。

第二弾は、通訳翻訳エージェント・国際会議運営・通訳者翻訳者養成学校 (アイ・エス・エス・インスティテュート)の立ち上げ等でご活躍された寺岡 善滿氏(合同会社アシスト代表)と平本 照麿氏(株式会社アルク代表取締役会長)にお話をお伺いしました。

寺岡 善滿氏

合同会社アシスト代表

平本 照麿氏

株式会社アルク代表取締役会長

【Interviewer】筆谷 信昭氏(創業者子息、元代表取締役社長)

まず、はじめにお二人のISSとの関わりについてお聞きします。寺岡さん、通訳翻訳エージェント・国際会議運営会社としての立ち上げに関わったとのことですが、ISSと関わるきっかけは?

寺岡氏

私は、広告代理店にいたのですが、当時東京ヒルトンホテル(The Tokyo Hilton/現キャピトル東急ホテル)を担当していて、広告営業でいった先が、ISSの前身である株式会社インターランゲージ・サービス・システム(ヒルトンホテルでセクレタリアルサービスを提供する会社としてカウンターを開設)でした。当時、東京オリンピック開催を祝し、IOC組織委員会会長のプランデージ氏をはじめオリンピック関係者や皇族関係、列国の駐日大使ご夫妻等を招いて行われた国際舞踏ショーを請け負う事などもしていました。

ISSは、1964年の東京オリンピックを契機として、国際社会に向けての人材サービスの提供と、その社会的意義を込めて起業したのがはじまりです。入社当時の役職は営業副支配人でしたが、社員は自分一人(笑)でほかのカウンタースタッフはアルバイトでしたね。

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寺岡さんは、ISSの前身(株式会社インターランゲージ・サービス・システム)からいらっしゃって、社名「株式会社アイ・エス・エス」の考案者と聞いていますが?

寺岡氏

はい。既に実績を持ち好評であった前身の会社の頭文字をとって社名にしました。
創業時は、銀行や放送会社の方や東京青年会議所のメンバーも携わっていらっしゃいましたけど、実務的な業務はほとんど自分がまわしていました。

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ヒルトンホテルでのカウンター開設の後、芝公園にある東京プリンスホテルにもビジネス展開されていますよね?

寺岡氏

政府間国際会議の需要が拡大しているなかで、通訳翻訳サービスの提供、シティガイドサービスを行うカウンター開設、そして、ホテルの一室を借りてオフィスも構えました。当時は、まだ国際会議の運営ができる会社がほとんどなかったのではないでしょうか。

話は少し戻りますが、YMCAの世界大会の日本開催が決まっていましたが、契約していた同時通訳会社が実施能力なしと判断され、急きょ代替の会社が必要となり、ISSが5ヵ国語の同時通訳を受注したのですが、当時我々は「同時通訳?」という感じでした。丸善に飛び込み何か資料をと探しましたら国際会議(国際図書)と言う本を見つけ、東京外国語大学教授の小浪充先生が「同時通訳」の章を執筆されていましたので、その頃同大学のアルバイトでありながら広範な知識と外国語力でISSを支えてくれた伊崎捷治氏(後にJETROで長年ドイツ事務所の代表を務める)を通じて紹介してもらい、小浪先生に同時通訳のAからZまで教えていただきました。

また、その当時ヒルトンホテルのISSインフォメーションデスクに座っていたブレンダ・ハフさんに「同時通訳って知っている?」と聞いたら、「私、資格持っている。ジュネーブ大学の同時通訳科を卒業して2回くらい国際会議の同時通訳の実務経験もある」との返答を聞いたときは、驚きと喜びに飛び上がったのを今でも思い出しますね。早速彼女を講師として多国語間の同時通訳講座の構想を固めました。そして、同時通訳 (5ヵ国語)研修生候補者をThe Japan Timesで募集したところ、多くの人が応募してくれました。

選抜試験の合格者を対象に、早稲田大学の脇にあった英会話学校 (ランゲージ・ラボ)を夏休みの期間中貸し切りにして、日本初の「多国語間同時通訳者養成講座」を開講して毎日教育訓練に励みました。それが、現在のアイ・エス・エス・インスティテュートの原点です。この講座の卒業生が御殿場の「東山荘」で秩父宮妃殿下を総裁にいただき開催されたYMCAの世界会議で5ヵ国語同時通訳として何とか成功に導きました。その後このチームは台湾政府に招かれ、台北市で開催された「世界反共同盟会議」でも5ヵ国語の同時通訳を無事に務め、現地の新聞に大きく報道されました。

こうした成功例に触発されて、日本政府に国際会議の同時通訳を育成しようとする動きが芽生え、運輸省 (当時)の傘下の国際観光振興会 (JNT0)で国際会議の誘致支援を担当していた日本コンベンションビューローが、この事業に乗り出しました。当時ヨーロッパで有名であったスイスのジュネーブ大学同時通訳科名誉教授のジャン・エルベール博士を招聘し開講。その下でコーディネーターとして大活躍されたのが後に英日語間の同時通訳として名声を博したISSの主任通訳佐藤敬子さんでした。彼女は早稲田の5ヵ国語同時通訳講座に日本人で参加した人です。当時オリンピックの後、万博の前ということもあって、通訳として勉強したい人は大勢いました。
そこから出て来たオチョテコさん(ウルグアイ駐日大使令嬢)、コカ・コーラボトリング社の社長令嬢のマール・比嘉さんらはその後世界的に通用する同時通訳者になっています。

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続いて、平本さん、ISSとの関わりについてお聞かせください。

平本氏

私は、ISSへ入社する前は外資系の出版社にいました。おそらく1965年頃だと思いますが、広告営業でISSを訪ねたのがきっかけでした。その当時、寺岡さんはすでにISSに入社されていて、東京ヒルトンホテルでの外国人向けセクレタリーサービスを担当されていましたね。寺岡さんとの出会いは、その広告営業でヒルトンホテルのカウンターに行った時だと思います。
1964年に東京オリンピック、70年に大阪万博が開催され、まさに日本の国際化時代の幕開けでした。
観光ガイド協会が設立され、通訳案内業の試験制度もできた頃です。

1960年代は、まもなく到来する国際社会に向けての準備期間だったと思います。
ISSでは国際会議部に相対する国際観光部を立ち上げる話があり、それらを手伝って欲しいということで入社しました。ヒルトンホテルで外国人向け媒体を出版する企画もあり、出版の仕事をしながら外国人向けのガイド斡旋を行なっていました。ヒルトンホテルのロビーにシティガイド (シティインフォメーション)のカウンターを創設して、通訳、翻訳の請負窓口、ガイドの受付をやっていました。受付カウンターでの英語ができる人材を募集したら、大勢の応募がありました。その当時、国際観光振興会も設立され、外国人観光客が一気に増加していました。ガイド協会も設立された頃です。ISSはライセンスを取得していなかったのですが、優秀な人材を多く保有していました。ガイド協会の規定には、18時以降は女性を出してはいけないという規定があり、夜のガイドは私の担当ということになりました(笑)。夜の接待も重要な通訳ガイドの役割ですからね。

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寺岡さん、国際観光部の立ち上げのなかで、当時、国際会議部が担当した会議の思い出はありますか?

寺岡氏

国際会議での全体運営を初めて請け負ったのは、「アジア国会議員連合会議」という同時通訳を含む会議です。当時のISSが担当した最大の国際会議は、京都で開催した国際青年会議所(JCI)の世界大会だと思います。
また、当時日本で初めての首脳レベルの閣僚会議「東南アジア開発閣僚会議」や、国際定期航空操縦士連盟(IFALPA)という国際線パイロットの世界会議も担当しました。
国際会議自体、はじめはマーケット規模が小さかった(※)のですが、日本の驚異的な経済復興の波に乗り、世界的にも重要な国際会議が次々と日本で開催され、裏方の仕事をつとめたISSは錚々たる国際コミュニケーターのプロ集団であり、本当にスペシャリスト、トップクラスの人達が集まっていた集団でしたね。※1966年に日本で開催された国際会議件数は年間110件であったが、1980年には1007件、1990年には2475件となった。(国際観光振興会(JENTO)コンベンション統計による)

当時、PCO (Professional Congress Organizer)はヨーロッパに既に数多くありましたが、ISSは、ヨーロッパのPCOと比べても互角以上の力と実績を持っていることを認識し、嬉しかったですね。
ポスト・オリンピックの新しい時代に、ISSがニュービジネスを創設し、発展させて今の時代をつくったと評価できると思っています。

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平本さんは、「アルク」を立ちあげるきっかけとなった出来事がISSであったと聞いていますが。

平本氏

「アルク」をつくるきっかけは、当時ヒルトンの裏にあった山王ホテルの支配人と親しくなり、ホテルのガイドブックを出してほしいと依頼されたことです。極東に駐留している米国軍人に配る山王ホテルのPR誌です。出版の仕事をしたくてISSへ入社しましたが、社内では今は国際会議に特化するからということでNGでした。引き受けてしまった仕事なので「別会社でやりたい」と提案したのが独立のきっかけでした。

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「国際会議等のグローバルな舞台で、日本人はコミュニケーションが苦手」と言われて久しいですが、英語教育という観点で「アルク」立ち上げ時からの思いをお聞かせいただけますでしょうか。

平本氏

国際会議の現場にいて痛感したことは、会議に出席している偉い先生方が、外国人とほとんどコミュニケーションがとれないということでした。これを見て、日本の英語教育がおかしいということに気が付いたわけです。それが「English Journal」を発行するきっかけになったわけです。当時カセットテープがやっと普及し始めた頃でした。これを使えば画期的な音声教材がつくれると思い、アメリカからカセットテープのダビング機を導入して、日本初の音声付月刊誌として出したのがEnglish Journalでした。

英語は国際語、実際に使っている英語を理解してコミュニケーションができなければ意味がないと思ったわけです。初代編集長に起用したのが、国際会議で活躍していた「20か国語ペラペラ」 (実業之日本社刊)の著者、種田輝豊氏でした。英語は使うための道具だ、という信念に基づいて、徹底して実際に使われている英語をそのまま教材として取り上げてきました。

日本の国際化黎明期からグローバル化の時代まで、残念ながら英語教育はあまり進化していないと思います。グローバル教育は、英語だけの間題でなく、日本の教育自体を考え直す必要があると思います。いまは教育の世界標準化、国際競争の時代です。英語を世界共通語として誰でも使えるようになることが求められています。同時にダイバーシティの容認と理解が教育の原点として絶対必要です。グローバル人材の養成と語学のプロの養成は根本的に違うとも思います。グローバル化イコール専門家レベルはあり得なくて、別の人材養成が必要です。それと同時に、日本の中での専門家としての「通翻訳者」の地位を上げることをしないといけないでしょうね。

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お二人にとってISSとは?

寺岡氏

ISSとの出会いは、天が定めた軌道に必然的に乗ったという印象をもっています。将に天命に従ったということだったと思います。途上では精神的・肉体的挫折も味わい、絶体絶命も何度も経験しましたが、いつも天と私の守護神が救ってくれました。ISSで学んだことが私の人生の基盤を作ってくれたと自覚しています。お陰さまで楽しい思い出が満載の人生を楽しめました。ISSグループのビジネスは、益々グローバル化の速度を速める日本にあって、ぐんぐん伸びてゆくと確信しています。

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平本氏

ISSに縁がなかったら、アルクもなかったと思います。グローバル化の時代の黎明期にISSという会社に関係したことは僕の人生を大きく変えました。「英語は、国際コミュニケーションの道具なのだ」と気づかされたのもISSに入ったからです。色々な意味でISSがやってきたことは日本のグローバル化につながる原点といえるでしょう。

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―お二人ともお忙しいなか、ありがとうございました。